晶の東京日記

本とかアートのこと。東京にいる間は東京を楽しみたい。

北大路魯山人の言葉たち

4月に始まって6月26日まで、三井記念美術館にて

北大路魯山人の美 和食の天才」という展覧会が行われています。

www.mitsui-museum.jp

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魯山人といえば。。。

 

自分の作った料理を盛るために陶芸を始めて、ついには陶芸家になった人。

傍若無人で気難しい人。

イサムノグチと親交がある。

 

という浅い知識でしたが、美術の世界では要人なのかと思い、

展覧会へ行く前に魯山人について書かれた本を読みました。

 

 解説によると、著者の山田さんは魯山人の遺族や関係者80人余りを

探し当てて訪ね、活字化された魯山人の文献はほぼすべてに当たられたそうで、

「とほうもなく精密な魯山人評伝」とのこと。

山田さんのお父様は魯山人会の発起人らしく、

子供のころのお家の器は魯山人のものだったというご縁のある方です。

知られざる魯山人 (文春文庫)

知られざる魯山人 (文春文庫)

 

 

魯山人は京都の生まれで、若いときから書や篆刻で才能を発揮し、活躍します。

北陸とも縁があり、その後東京に出てきて書や篆刻のほかに、

古美術を扱う仕事をはじめ、その延長で骨董の器に料理を盛り付けて供する

会員制の食事会を行うようになります。

お料理は子供のころから家庭で行い、修行もした時期もあり、

美味しいもの好きと相まって、料理人としても才能を発揮されました。

それが好評となり会員が増え、星岡茶寮という料亭を始めます。

そして茶寮で使用する器を自分で作るため、星岡窯という窯を築きます。

そこで陶芸の研究や古窯の発掘調査にも力をいれ、古美術蒐集にもどんどん

のめりこんでいきます。そこでお金もいっぱいつかい、茶寮でも自分の意思を

貫き通し、やがて、茶寮経営者と仲違いして茶寮を追われます。

そこから、魯山人は陶芸家としての道を探求していきます。。。。

 

というのがざっくりした魯山人の歩みです。

 

こちらの本で、魯山人について書かれたものから魯山人の人となりのわかる文章が

ところどころに紹介されていて、傍若無人で気性が激しく感じる魯山人

大事にしていた考え方や姿勢が伝わってきました。

 

魯山人は一人の人間としての在り方や心が作品に表れると言っていると同時に、

作品をみて、その人を感じていたようです。

特に書に関しては、書かれた文字でその人がわかると言い、茶寮の面接も

手書きの履歴書を見て採用を決めていたそうです。

それだけに、周囲の人たちの日頃の行動にも厳しい目線を送っていたのだと思います。

そのために、激しく怒りをぶつけたり、衝動的な行動に感じられることも

あったのかもしれません。

数々のエピソードの中では、筋を通して接することや相手を想う話も多くあり、

どんなときにも自分が大事だと思ったことを貫いた結果だったのかと思います。

 

本で紹介されていた魯山人の言葉を抜粋したので、長いですが、下記に引用します。

※「」のないものは、本の中の山田さんの文章です。

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「私が言いたいことは、たとえいかなる社会事業も、善行も、すべて人のためにやることでなく、『人のためにするのだ』という自分の喜びのために、実はなされているのだということを言いたいのだ。
しかも、それはまことに大切なことで、すべて自分のためにすることのできる人にして、はじめて人のためにすることが出来る人だということを私は言いたい。
自分は満足しなくて、人のためだけに生きているという人があれば、それは偽善者だと思う。偽善者とは、人を、社会を、あざむく人のことではなく、自分自身をあざむく人のことだ。画家は人を感心さす絵をかこうとするな、先ず自分が酔える絵を描くべし。自分さえ酔うことができない絵に、誰が酔うものか
(昭和28年「誰がために」『独歩 魯山人芸術論集』)
 
「萬暦赤絵は風彩要望の點は非常に立派だが、内容は其立派な風彩に伴はない。(中略)要するに彼(萬暦赤絵)は形式の作品であり、是(古九谷赤絵)は内容の作品であると言い得るのである。(中略)此の方(古九谷赤絵)は色も黒ずんでいるし、塗り方もキタない、支那のもののやうな手際がない。(中略)だが、それにも拘らずよい感じがする。(中略)之は結局作者の国柄と人の問題である、いい人の手になったものは、不手際でもいいものが出る。つまらぬ人間がいくら手際よくやっても、やはりそのつまらなさと蔽うことは出来ない
(「古九谷赤絵の壺」『星岡』62号 昭和10年11月)
 
「残肴の整理などと云えば、如何にも吝ちに見えるが、米一粒でさへ用を完う(まっとう)しないで捨て去って仕舞ふことは勿体ない。雀にやるとか、糊をこしらへるとかすることも料理人の心懸くべきことである。一椀の飯でも意味なく捨て去つて仕舞ふことは許されない。用なるものはことごとくその用を使ひはたす所に天然の妙味があるのだと思ふ。(中略)料理人は料理で金を儲けることよりも、料理に興味を持つといふことが天命であらう。
(『星岡』54号 昭和10年3月)

 

「いずれにしても食を説くかぎり、食品そのものの持つ特質を鋭敏に知悉し、そこより料理の工夫を発見し、それが合法に処理されるならば、食つてうまく、うまければこそ、その栄養は申し分なく成功し、心身爽快、健康成就と落ち着く所に落ち着くのである。こうなると料理の考え方も芸術的になり、面白くなると言うものである。世間にありふれたインチキ料理、出鱈目料理では、ごまかされて生きる人間ばかりが輩出し、その後におこるものは殺伐をみるばかりである」
(昭和29年「美食五十年の体験」『独歩 魯山人芸術集』前掲書)
 
作品(茶碗)の美をとおして、何はさておき造り手の人間を見ようとするところが他の鑑賞者と異なる魯山人の視点である。陶磁器に留まらず、書などすべての芸術作品に対して彼は、そこに人間の崇高を見ようとした。
 
「とにかく隠れた所を穢くしておかぬように厳重に言い付けてはおくのです。鍋もきれいに磨かせて、流ししたを綺麗にしておけば、そこを流れるごみも綺麗に見えるようなものでしてね。塵箱などもやかましく言ってごみを捨てるところだという考えを持たず、食器などと同様の心持ちで取扱わせているのです。それからなによりもまず第一に私は料理人の個性を重んじ、人格を尊んで行くことが大事だとおもっていますんです。でなくては良い料理人の個性を重んじ、人格を尊んで行くことが大事だと思っていますんです。でなくては良い料理は出来やしません。周囲を清潔にしてその中に美しい人格を育み、そして心から美しい料理を作らせたいと思っているんです。
(『独歩 魯山人芸術論集』前掲書)
 
彼が終の栖として移築した300年前の田舎家(母屋。のちに財産税の支払いのために敷地ごと売却)は、移築から竣工まで300年近くもかけた。なぜ刈れば己の住まいと環境の整備にそれほど腐心したのか。理由は簡単である。彼は大自然と一体化すること、そのような生活からのみ本物の芸術が生まれると確信していたからだ。
 
良寛様の書は室からいっても、外貌からいっても、実に稀にみるすばらしい良能の美書であって、珍しくも、正しい嘘のない姿である。いわゆる真善美を兼ね具えたものというべきであろう。かような良能の美書の生まれたのは、良寛様その人の人格が優れて立派であったからである。書には必ず人格が反映しているもので、人格が反映していない人格以上の書の生まれ出ることなど、まずもってあり得ない。
 
良寛様の書は、良寛様のあの人となりにして、初めて生まれたものなのである。今一方仮に、良寛様の人格を封じ込めておいて、単に技能的立場だけから見るとしても、良寛様の書技は大したもので、古法帖に伝わる幾多の能書に比較して更に遜色がないのみか、まったく脅威に値する入神の技あで立ち至っている。この点でも、私は深く感心させられているのである」
(「魅力としての親しみと美に優れた良寛の書」『魯山人書論』前掲書)
 
「現今、芸術の世界にまで勲章が授けられることとなり、大いに懐具合のタネになっているらしいが、文部大臣賞とか芸術院賞とか言っても、肝心の文部大臣が芸術のなんたるかを知らない者であっては、どうにもならない。賞をくださる人が目利きであっての授賞なら話はわかる。だから、賞を貰う前に、『一体誰がくれるんだ』と、先ず授賞を決定する御当人たちの選衡からはじめねばなるまいね。目の利かん者が決定するなどは、傲慢であり、無法であり、不遜と言う他はないね。それに作家にとっては、作品が永久にものをいうから、勲章などどいうアクセサリーはいらないね。
(「魯山人こぼれ話<4>」『陶説』124号 昭和38年7月)
 
いい作品を生むためには、もっと生活が豊かにならなければいけない。豊かにというのは金があればよいということではない。心が豊かになるということだ。現象にばかりひっかかって右往左往していては、どんなりくつがあっても立派なものは出来っこないのだね」
(平野雅章「日々是精進ー魯山人晩年のあけくれー」『Beauty Science』No.2 前掲誌)
 
「どんな境涯にあっても、毅然たる心を持たねばならん。芸術家の生活に於いては特にそうだが、下らん遁辞を設けて、自分の不備を棚上げしてしまうような弱さではいけない。自分自身に忠実、素直に対決することが、生きるということだね
(「魯山人こぼれ話<1>『陶説』121号 昭和38年4月)

 

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魯山人民芸運動を提唱していた柳宗悦のことも痛烈に批判します。

柳はそれに対して応戦はせず、また、魯山人の審美眼を認めていました。

そして、魯山人も民芸論を批判しながらも、民芸の品々に囲まれて

生活していたそうです。

お互いに共通の美意識を持っていたようです。

表現方法は異なっていても。

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ちなみに柳は、やはり挑発に乗らずだんまりを決め込んだ口だった(但し葉書は出した)が、魯山人の側近だった秦秀雄がのちに柳に会った際に、柳から「君のこれまでつきあった人の中でどんな人が一番目ききだったと見ましたか」と質問をされ、没して間もなかった魯山人の名を挙げると、柳は微笑をたたえながら「やっぱり魯山人上越す鑑賞人はちょっとめっけられまいね」と応じた。そのときの秦の印象では「そこには往年民芸論に茶々をさした山人(魯山人)に対するにくしみのひとかけらも見出すことはできなかった」(『追想の魯山人』前掲書)という。

 

その彼の身の回りに上等の民芸品があったことについては、秦秀雄が、魯山人の他界後まもなく柳に会った折り、こう述べたと記している。
「あの人(魯山人)の嗜好に独特の目、自由に物を選ぶ目を持っていましたよ。(中略)
一ぺんあなたに彼の書斎をお見せしたかったですね。英国の古い机に二重クッションの黒い革張りの英国の古い椅子、それにウィンゾアの椅子をいくつももって客に応接していましたよ。民芸愛好を口にする(あなたのような)人よりはるかに民芸調の暮らしをした人ですよ。だいいち彼の田舎家の住居は仏壇も神棚も調度品一切民芸品の宝庫でしたからねえ」(「魯山人追想」『追想の魯山人』前掲書)
 
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多くの才能に恵まれて、誰よりも貪欲に生きた魯山人
展覧会で彼の生き様を少しでも感じられることを楽しみにしています。
 
会期は6月26日(日)まで。